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【バックナンバーからの抜粋記事】
2023年12月発行
この記事は、以前発行した会報紙(2023年12月発行)からの抜粋記事です。
会報紙は年に1回発行しておりますが、全ての記事をHPに掲載しているわけではなく、会報紙でないと読めない記事もありますので、ぜひこの機会に会報紙もご覧ください。(会報紙は会費を納めていただいた方に発行しています。)
反省はしても後悔はしない〜浪速女、京へ嫁ぐ〜
京菓匠「笹屋伊織」お女将
25期 田丸みゆき(旧姓:武田)

陸上部ではやり投げ。得意科目は体育。唯一の自慢は学内の体力測定、2位。そんな私の代名詞は「パワフル」だった。卒業後の進路は帝塚山学院の短大。「そこ、お嬢様の行く学校やで〜」と、からかわれるほど、私はたくましい女子だった。
父は高校の体育教師。母は専業主婦。商売と縁のない環境で育ち、20代前半はバブル全盛期。憧れは海外で、着物や茶道、和の文化には全く興味がなかった。そんな私が電撃結婚で京都の創業300年の和菓子屋に嫁ぐことになる。
老舗といえど、当時は経営状態が悪く倒産も危ぶまれていた。しかしながら「知らない」という事と「若さ」は強い。何も分からないまま、周囲の心配をよそに飛び込んだ。頭を使う事より身体を使う方が得意だったので、とにかくがむしゃらに働いた。「大変でしょう」と言われたが何もかもが初めての事ばかりで大変なのか考える暇もなく、むしろ一つ一つ出来るようになることが楽しかった。
嫁いで29年。店は年商7倍、従業員数5倍に成長した。大きな改革をしたわけでも、ものすごい経営手腕があったわけでもない。ただ目の前のことから逃げずにコツコツとお客様やお取引先、そして従業員さんの期待に添えるように一つずつ積み上げてきた。もちろん逃げ出したい事なんて山ほどあり、それは今も変わらない。でも逃げたくなる時いつも私にブレーキをかけるものがある。それは逃げた過去の自分。実は、阪南高校は私の行きたい学校ではなかった。では第一志望が不合格だったのか?・・・いや、落ちることが怖くて受ける事すらできなかったのだ。だから高校入学からは、ずっと後悔をして過ごした。退学しようかと真剣に考えたこともあったが臆病者の私にそんな度胸も覚悟もあるはずがない。そして、自分が逃げたことを全部周りのせいにして人を羨み高校生活なんて面白くない、自分は不幸だと腐っていた。
当時、阪南高校のラグビー部は全国大会に出場する強豪校でラグビー選手には憧れの学校だった。ある日、同学年の男子が「オレ、お前の学力では絶対に無理やって言われたけど、どうしても阪南でラグビーやりたいからみんなの反対を押し切って阪南を受けてん」彼は一年生で花園に出場した。自分とは対照的な彼の姿がまぶしくて私は恥ずかしくて情けなくて消えてしまいたかった。
それからだ。少しずつ「すべては自分が決めたこと」「逃げない」「人のせいにしない」を心がけるように努力した。もちろん、すぐに変われるわけではないから一歩進んでは二歩も三歩も下がる。でもここで逃げたらまたあの情けない自分に戻ってしまう。そんな積み重ねだった。それは五十半ばになった今も変わらない。まだまだ道半ば。やりたいこと、やらねばならないことは山積みで、課題は次々と押し寄せてくる。いつまでたっても自信はないけれど、反省はしても後悔のない生き方をしたいと思っている。
五十歳を過ぎたころから高校の同級生と食事会や旅行、ゴルフと集まる機会が増えてきた。女将の顔からやり投げ少女だった頃に戻り、他愛のないことで笑い合う。また最近はひょんなご縁で阪南高校の先輩や後輩と知り合うことが多く、皆さん応援してくださる。同じ高校というだけで心が許せて甘えることができるのが何とも嬉しく、とてもありがたい。
自分のことが情けなくて嫌いだった高校時代も今は生きるのに一生懸命だったんだと可愛く思える。阪南の自由な校風は生真面目だった私に良い意味で「ええ加減」を教えてくれてバランス感覚を養ってくれたように思う。
今、私は和菓子屋の女将の仕事以外に講演活動に力を入れている。私の話をお聴きくださった方が松竹新喜劇のように笑いあり涙ありで面白い、と言ってくださる。「面白い」は大阪人にとって最高の褒め言葉だ。もし、お世辞ではなく本当に面白いのだとしたら、それは阪南高校で培われたものに間違いないと感謝している。一生懸命に悩んで苦しんで、その分、笑って楽しんだ十代。「青春」という言葉は私にとって阪南高校そのものだ。
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